世田谷パブリックシアター、サイモン・マクバニーの”春琴”を見た。
春琴の体は小さな子供の人形から少し背の高い少女の人形へ、そしてそれを生身の人間が人形振りをし-この女優さんの動きが素晴らしかったのだけれども-、ここまでを深津絵里さんが浄瑠璃のように春琴の人形と人間を操りながらセリフを言う。そして晩年の春琴の肉体は深津さん本人に移行していく。劇中、幾度となく語られるが、春琴は医学的にも盲目であるが、佐助もある種の盲目で、目は開いているが妄想を見ている。お互い闇の中に生きていたのである。しかし佐助はバシバシぶたれ、そのこの世の痛みもしくはカイカンを通して、観賞用の人形だった春琴が、生身の人間へと移行していったのであろう。打たれてしなる。佐助のその背中の美しさ。疑いも持たず、飽きることもなく、ひたすらあがめるその盲目的な姿。OBSESSION。そんな一生もきっとどこかにあるのだ。
深津さんは肩に力の入らない自然体の女優さんととして認識していたのであるが、ところがどっこい、やはり女優の強さはかくせない。腹のそこから出るあの春琴(特に幼少時代)の声にはゾクゾクするものがあった。淡々と読み進まれる谷崎の文体、役者たちの美しい計算された動き、最小限の小道具、三味線の音、そして春琴の盲目の世界を思わせる美しい照明、それらが渾然と絶え間なく舞台の空間を動かす。2時間弱の”極彩色の闇の中”はあっという間に幕を下ろした。
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