2012年10月24日水曜日

高校進学相談会

秋も深まり、そろそろワカの高校志望校を中学校に提出しなければならない時期になった。オヨヨ。

都立高校は私の子どもの頃あった学校群制度がなくなり久しいが、都内全域OKってことは大島でも新島でも?とワクワクしたりして。そんなことで、選択肢は広がったけれど、受験できる高校は一校のみの一発勝負は昔と変わらず、私立の併願校は必要。その私立高校がこれまた沢山ある。その上昔とはかなり様相が変わってしまって、私の記憶なんぞなんの役にも立たない。1時間以内での通学圏を拾っただけでも結構な数で、全部を見学する気力も体力もない。結局、一日でガガガっと話の聞ける合同説明会「東京私立高校進学相談会」というのに行ってみた。

うすうす想像はしていたけれど、会場に来てその光景に、たまげた。私の頭の中の「教育」というイメージからは程遠く、まさしくこれは展示会の商談会・・・。女子校や男子校は共学に変わり、制服が変わり、校名まで変わり、”企業”イメージがすっかり変わってしまった学校が少なからずある。どこも一様に「特進」とか「進学」コースを設け、大学進学実績をアピールする。ある学校は「放課後に塾の講師を招いて補講をするので、予備校に行く必要はありません!」と胸をはる。ア、あの~、もしもし…? で、相談が終わるともれなく”粗品”。なんだか「3年満期」、「元本補償なし」の投資ファンドの説明を受けたような。

「私立高校は親同伴で行ってください。真剣さが伝わります。」と中学の先生に驚かされ(たように聞こえた)、内心「一人で学校訪問する子どものほうが自立しているじゃないの~」と斜に構えていた私。しかし、別の意味で、15の子どもにはとても手に負えない世界、ということが何となく分かった週末だった。世の中の親のニーズに合わせているのかなぁ。そんなに絵に描いたように物事が運ぶわけないし、そもそも学校に行くのは親じゃなくって子ども本人だし、勉強するもしないも本人次第だと思うのは甘いのかなぁ。

そして、落ち着かない空気が漂いながらも、人生なんとかなるわいなモードの我が家であった。

2012年10月8日月曜日

村上春樹「魂が行き来する道筋 」

まだ読んでいない方に・・・
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 尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。
 この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。
 僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
 たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。
 このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。
 今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。
 国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。
 そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。
 僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。
 最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。
 安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

2012年10月1日月曜日

夕焼け

秋の日は釣瓶落とし。
日が短くなるのと同時に、秋の気配を感じるのは夕焼けの空の色。
秋の夕暮れは本当にきれい。今年は暑くなるのが遅くて、残暑が長引いて、今日も台風一過で夏日となる。でも、毎朝通勤で同じ時間に歩く道、強い日差しで避けて歩いていた歩道が、建物の影に。まだ夏の暑さが残っていても今日からもう10月、太陽は低く、もとい、地球はちゃんと公転している。

2週間ほど前の帰宅途中、まだ残暑が厳しいころだったけれど、秋の空らしい素敵な光景が出迎えてくれた。西に広がる夕日の美しさに見とれていたら、行き交う人が立ち止まって東の空を見上げている。振り返って見てみると、皇居にこんもりと茂った木の上に、半弦の虹が!
iphone3Gの写真はなんとなくぼやけた感じだけれど、それも、いい。

季節の変わり目、冬から春はウキウキするのに、夏から秋はどんなに暑さにうんざりしててもなんとなしサミシイ。来週の連休は衣替えをしよう。