2012年1月29日日曜日

J・エドガー  J. Edgar

FBIのジョン・エドガー・フーバー長官(レオナルド・ディカプリオ)は、20世紀前半20代でFBI前身組織のトップとなり、約半世紀もの間死ぬまでFBI長官であり続けた。科学捜査の基礎を作り、州の壁を超えた広域捜査を始め、指紋管理システムも構築。権力の座に執着、長官時代に就任した8人の大統領の秘密を集め、おそらくその情報で脅しながら保身を図る。 「国家の敵は内側にある」と、捜査官の武器携帯を合法化し、共産主義者をテロリストと捉え徹底的に弾圧。


そして私生活ではクローゼット・ホモセクシュアルであり、マザコン。彼は「捜索オタク」で、もし、今の時代に生まれていたらPCを駆使したに違いない。NCISのアビーなんて、きっと気にいられるだろう。ま、彼の場合真実が厄介者になる時もあり、一緒に働くのは大変そうだ。そんな情報を収集し、若い頃は映画やコミックを使って自分を英雄に祭り上げ、FBIを認知させるプロパガンダを行った。老いては事実を伏せて、自分の武勇伝を書き残そうとする。彼の作り上げた世界は、私からは少々遠い存在のアメリカの近代の側面を知るのに大変勉強になるし、主義や信念の危うさについても深く考えさせられる。


フーバーやその時代については勉強不足だから言及は避けるとして、「映画」としての俳優陣について。フーバーの腹心クライド・トルソン役のアーミー・ハマーは、「ソーシャルネットワーク」で金持ちの双子役を一人二役でやった人。クライドがフーバーの面接に来た時のシーンの彼は素晴らしい。恋愛関係として完全に優位に立つその堂々とした振る舞い、それでいながらフーバーを愛おしく見つめる目。高ぶる若者の気持ち、くらい部屋と窓からの光がアーミー・ハマーの意味深な美しい瞳をしっかり捉える。

このシーンでオタオタするフーバーをディカプリオがなんともうまく表現している。クライブの視線を動じながら受け取る、その落ち着きのなさや空威張りが素晴らしい。巷では、晩年を演じた時のメイクが陳腐とか言われているけれど、なんのなんの、メイクなどは全然(と言ったらウソになるけれど)気にならず、私には老人を演ずるディカプリオの良さが意外だったほどだ。違和感あったのは、声が若々し過ぎたくらいか。いつもの彼の”アクトしてます!”オーラが、血の気の多いフーバーのキャラクターとうまくハマったのか、イーストウッド監督のシンプルな采配か。今回アカデミー賞にノミネートされなかったのは少々残念だ。

フーバーの母親役のジュディ・ディンチは圧倒的な存在感、秘書ヘレン役のナオミ・ワッツもいい女優。ジェフリー・ドノヴァンが、「チェンジリング」に続きロバート・F・ケネディ役で登場。でもフーバーには「バーン・ノーティス」は出せず。

2012年1月25日水曜日

リンパマッサージで眉毛が・・・

去年の秋、笑おうとすると頬があまり動かないことに気がついた。顔がガッシと凝っているようだ。ここ、数年いいエステがあったら通ってみたいと思って、幾度かお試しキャンペーンというのに行ってみたけれど、ずっ~と水蒸気を当てられたり、じーっとパックしていたり、待ってばっかりで何となくしっくりこない。お値段だってキャンペーンじゃなかったら、私にとっては結構な出費だし。

人に聴いたりネットで探したり、そして、ネットでピンと来たお店が一つ。入会金やら化粧品の販売やらそんなものはなさそうだし。地図を頼りにやっと見つけたお店は、小さな、小さな一軒家。その普通すぎるたたずまいに、何となく不安が過ぎったのだけれど(失礼)、いざマッサージが始まると・・・。ち、違う、今までと全然違う。化粧品をヒタヒタというのではなく、凝っているところのツボをグリグリ。それがなんとも言えず、イタ気持ちいい。リンパの流れに沿ってマッサージ。セラピストさん自身で調合したハーブのオイルや化粧水を使っていて、その香りに毛細血管が隅々まで全開(そんなことあるかどうかわからないけれど)。嬉しいのは、その手業がずっと続くのだ。「疲れませんか?」と聞いたら、「お客さんになるだけ触れているのが、自分としても納得出来るんですよね」だって。

終わってみると、いや~顔が軽い、軽い。とにかくこわばらずに普通に笑える。一ヶ月に一度通うことにした。一ヶ月経つとまた顔は固まってしまうけれど、とにかく女王様のように優雅な時間が心からありがたい。

そして4度目が終わった頃、な、な、なんと、眉毛が生えてきた・・・。実は眉毛の半分から後半が何となく薄くなってきていて、このままだといつかオカメの眉毛になってしまうのではないか、と思っていたところだった。

満員電車でイラッ、会社でムスッ、子どもにオラッ、とにかく顔がこわばることには事欠かず。本当はゆったりとオカメのように笑っていられたら、いいのだけれど。なかなかね。

2012年1月23日月曜日

電力は足りているかというよりも

40年以上稼動している原発運転停止の例外とか、大飯のストレステストが非公開で妥当の結論出したり、東電の17%&一般家庭向けも電気料金値上げとか。なんだかなぁのニュースがたて続け。
そこに毎日新聞の記事、<電力需給>政府今夏試算「6%余裕」伏せる」(下に添付)


被爆の問題に関してははっきり言って、よくわからない。わからないことに不安を募らせたり煽られたりするのもアブナイし、安全だと言われても頭っから信じられない。残念ながら何も言えない。
私の原発反対の理由は、「放射能廃棄物の処理方法が決まっていない」ということ。これによって原価計算も変わってくるだろうし、なぜ安全なものの最終処理場をモンゴルまで持っていこうと考えたのかとか、あれやこれや納得いかないのよね。


この毎日の記事だって、万が一供給不足があったら大変なことになる、と最悪の場合を想定したのかもしれないが、「原発ナシでは大変よ」と驚かされているように感じるのは、私が記事に誘導されているのか。あんな大事故があったのに、当事者達が大きな見直しをする気配が私には感じられない。ウランだって100%輸入、戦争になったら格好の標的。原発が使えなくなったときの万が一を考える頭はないのかな、と思ってしまう。

とにかく原発を民衆の意見を二分するような政治の道具に使ってくれるな。


毎日新聞 1月23日(月)2時30分配信
 今夏の電力需給について「全国で約1割の不足に陥る」と公表した昨夏の政府試算について「供給不足にはならない」という別の未公表のシナリオが政府内に存在したことが、分かった。公表した試算は、再生可能エネルギーをほとんど計上しないなど実態を無視した部分が目立つ。現在、原発は54基中49基が停止し、残りの5基も定期検査が控えているため、再稼働がなければ原発ゼロで夏を迎える。関係者からは「供給力を過小評価し、原発再稼働の必要性を強調している」と批判の声が上がっている。

◇再生エネ除外、「不足」のみ公表

公表された試算は、東京電力福島第1原発事故を受け、エネルギー戦略を見直している政府のエネルギー・環境会議が昨年7月にまとめた。過去最高の猛暑だった10年夏の需要と全原発停止という想定で、需要ピーク時に9.2%の供給不足になると試算した。

この試算とは別に、菅直人首相(当時)が昨年6月下旬、国家戦略室に置いた総理補佐チームに、電力需給の実態把握を指示。経済産業省に対して、発電所ごとの設備容量・稼働可能性、地域ごとの再生可能エネルギーの稼働状況など、試算の根拠データの提出を求め、再試算させた。

その結果、現在の法律に基づいて電力会社が調達できる再生可能エネルギー容量は759万キロワット(原発約7基分)あったのに、公表された試算は供給ゼロだった。また、一部火力発電所で定期検査による稼働停止時期を猛暑の8月に設定したり、大口契約者への格安電気料金と引き換えに需給逼迫(ひっぱく)時の利用削減を義務づける「需給調整契約」による削減見込みもゼロとしていた。夜間の余剰電力を昼間に利用する「揚水発電」の供給力も低めに設定されていた。

再生可能エネルギーによる電力供給などを盛り込むシナリオで計算し直すと、電力使用制限令を発動しなくても最大6.0%の余裕があった。再試算は昨年8月にまとまり、菅首相に報告されたが、公開されなかった。

国家戦略室で同会議を担当する日下部聡・内閣審議官は「国の政策を決定する過程で、後になって『足りませんでした』とは言えない。慎重に堅い数値をまとめた。供給不足を導く意図はなく、昨年11月に公表した対応策で、再生可能エネルギーや火力発電の増強を必要な取り組みに挙げた」と説明する。一方、国家戦略室の総理補佐チームで再試算に携わった梶山恵司・富士通総研主任研究員は「電力会社の言い分をまとめた極端な前提に基づく試算。その数字が、原発再稼働を容認する政治家らの発言にもつながった。再試算は菅政権末期の混乱で公表できなかったのではないか」と問題視している。【永山悦子】


2012年1月22日日曜日

姉妹

家城巳代治監督、新藤兼人脚本の「姉妹」(1955)を見た。発電所がある山間の村に住む姉妹の物語。姉妹は、発電所で働く父、優しい母、小さな弟3人との7人暮らし。父親は発電所で働いていて人格者。母は良妻賢母。姉の圭子(野添ひとみ:美しい!)はクリスチャンで物静かな性格、妹の俊子(中原ひとみ:可憐!)は天真爛漫で物怖じしない性格。


発電所には人員整理の波、従業員の事故死、近くの農家からは食うに困った母親が北海道に移住する旅費のため娘を買って欲しいと頼みに来たり。父は亡くなったり首切りにあった従業員の家族の手前、俊子に修学旅行をあきらめるように言う、また俊子が買ってもらうはずだった靴のお金を農家の人に渡してしまったり。そのつど理由を丁寧に説明し、理解を求める父は、「他人は他人だといわれればそれまでだけど、それが自分の生き方だ」という。


買ってもらえなかった靴や参加できなかった修学旅行に対する不満よりも、一生懸命生きている人たちが不幸になる、という世の中の不条理に疑問を持つ俊子。俊子は姉の圭子に「いい人や真面目な人が報われないのはなぜ?」と尋ねる。圭子は「神が与えた試練なのよ」と答える。しかし淑子は言う、「政治の失敗よ」。


しかしけして暗いだけの映画ではない。村人たちは苦しい生活の中に小さな喜びを見つけて生きている。それは故郷から送られてきたスルメイカだったり、赤ん坊の顔を見ながらの野良仕事だったり。ささやかで何とも切なくなるけれど、本当の幸せというのはこんなものなのだと思ったりもする。
そして、今盛んにリストラが叫ばれている電力会社、その60年前の姿を見て複雑な重いがする。


去年から続いている山田洋次監督の選んだ100本の映画、どれも本当に面白い。

2012年1月19日木曜日

Hello ただしライオネル・リッチー抜き

これはほんとに面白い。映画の好きな人、必見なのだ!
最後はシュワちゃんに見つめられ、あの美女が・・・。


Hello from ant1mat3rie on Vimeo.

2012年1月18日水曜日

宇宙人ポール  PAUL

SF作家のクライブとイラストレーターのグレアムはイギリス人のオタク。遂に憧れのアメリカに旅行が叶う。目的はオタクの殿堂“コミコン”。コミコンのあとはさらにディープに、キャンピングカーでアメリカ西部のUFOスポットを訪れる旅に。

その道すがら、完全にアメリカナイズされたエイリアンのポールと出会う。長年いろいろとアメリカ政府には協力してきたけれど、挙句の果てになんと人体実験されることになってしまい、実験施設から逃亡してきたと言う。グリアムとクライブは彼を迎えに来ている宇宙船まで連れていく羽目に。で、ポールたちの乗ったキャンピングカーは政府の追っ手から追跡を受けることになる。そんなポール一行に、キリスト教で純粋培養された紅一点ルースも同行することになり、ルースの父親からも追っかけられる。

「未知との遭遇」、「ET」、「エイリアン」、「Xファイル」、「ロズウェル」etc....を、観客が見ていることは織り込み済み。でもパロディでは無くって、映画ネタやシモネタなどなどを織り込んだコメディー。サタデーナイトライブに出ているコメディアンとコメディエンヌも登場。ジェーン・リンチのジョークややシガニー・ウィーバーの登場もウケる。ポールの声はセス・ローガン、声だけでも面白いわ、この人は。孤独な宇宙人が底抜けにネアカなのが愉快。

イギリス人オタクも、キリスト教原理主義のルースも、ポールと同様エイリアンのようなもの。いや、どこまでも続く茶色いアメリカ西部の大地こそ、別の惑星に見えなくもない。

最後までおちゃらけで終わるかと思ったら、大爆発やらなにやらでサタデーナイトライブの面白い人が!あらら・・・。クレジットが終わってから、おまけ映像か何かで包帯だらけで登場するのかしら、と思ったら何もなく終わってしまった。

2012年1月17日火曜日

友達のワとFacebook

四半世紀ぶりに連絡が取れたお友達(A子としておこう)は旧姓で社会生活を送っていたので見つけ出せたけれど、苗字が変わってしまった女子を探し出すのは至難の技。A子と会ったとき、これまたずっと探していたB子も連れてきてくれた。2人とも同じ沿線に住んでたのだ、何年も!

B子はC太郎がFBをやっていると教えてくれたので、私のこと覚えているかどうかわからなかったけれど、メッセージを送ってみた。C太郎から返事がきて、D太郎からも友達リクエストが来た。D太郎が参加した同窓会の写真を送ってくれて、E助、F助、G子の顔を多分35年ぶり位で見る。でもわかるのよね~、誰が誰だか。この調子で行くと芋ずる式に友達が見つかるかもしれない。見つかるって言ったって、よく考えてみたら、行方不明だったのは私の方だったか。

Facebookは大学内の情報ツールとして始まったのだけれど、私の年になると「あの人は今」状態。サイバー探偵。感激の再会に幾度も泣きそうになっている今日このごろ。

2012年1月15日日曜日

四半世紀ぶりの再会

中学2年生の時のクラスはみんながとっても仲が良かった。私は父の転勤に伴い中3で転校し、その後は年賀状などで24,5才まではどうにかみんなと繋がっていた。しかし、外国暮らし、結婚、出産で引越しを繰り返し、自分のことで精一杯で気持ちの余裕がなかったのだろう、年賀状さえ出さず全員と音信不通に。

あるときインターネットでたまたまその時の友人の名前を見つけた。四半世紀前、最後に会った時と勤め先が同じなので彼女に違いない。連絡を取りたいのだけれど、はたして住所と代表電話番号が出ているだけで、メールアドレスとかは無し。しょうがないのでハガキを送ることにした。とっても懐かしいのだけれど、もしかして人違だったらとか、勤め先に送ることへの遠慮もあり、下書きには戸惑ってしまった。ひさ~しぶりに万年筆でハガキを書き終え、後は切手を貼り、投函するばかり。で、・・・ここまでが去年の3月の話。
そしてあの、3.11。
ハガキの存在はすっかり忘れ去られてしまっていた。

春が過ぎ、夏が過ぎても昨年はしばらく暖かくて、遅い秋風が吹くようになった頃、そろそろバックを変えようかな、と冬物を出してきたら・・・。なんとあのハガキがぽつねんと。そうだった、これ、出そうと思っていたんだった。読み返してみるとそのままでも問題なさそうなので、切手を貼り投函。なんだかドキドキする、ポストの投函口に引っかかってないかと手を入れてみたりして。そして2日後ケータイに懐かしい友達からメールが入っていた。ばんざ~い!そして年末に感激の再会。

お友達はインターネットがなかったら見つからなかったけど、最後の手段は昔ながらの手紙。
Eメールのおかげで驚くほど便利になったけれど、ポストを開ける時の楽しみがすっかりなくなってしまったのはちょっとさびしい。手紙、また書いてみようかな。

2012年1月10日火曜日

永遠の僕たち   Restless

ガス・ヴァン・サント監督。
イーノックは交通事故で両親をなくし叔母の家に身を寄せているが、両親の死を受け入れられず叔母とも折り合いが悪く学校へも行っていない。自らも交通事故で臨死体験をし、それ以後彼にのみ見えるようになった第二次世界大戦で特攻隊員だったヒロシが唯一の友達だ。他人の葬式に参列することが日課で、そこで出会った少女アナベルと会話を交わすようになる。アナベルは末期がん患者で余命3ヶ月と言われ、嫌なら友達でいる必要は無いと言う。死に取り付かれているイーノックは「待ってました」とばかり「それに関しては詳しいので色々と助けてあげられる」、とまるでカウンセラーのように言う。しかし、ふたりの楽しい時間は、少しづつ彼女に対しての思いを深くしていく。

まずオープニングで流れるビートルズの”Two of us”、これがいい。音楽とともに静かな郊外の町が広がる。あ、これアメリカの話だったのか、と思うようなヨーロッパの雰囲気が漂う。木漏れ陽の間に、家の廊下に、病院のベットにと、あちこちに憂いが漂い、何かを諦めたような淡い光に包まれた風景だ。

イーノックはデニス・ホッパーの息子ヘンリー・ホッパー。当たり前だけど、似てる~。目元涼しげな好青年ヨ。アナベルはミア・ワシコウスカ(アリス・ワンダーランド)、短く切った髪とお洋服がジーン・セバーグのようでとっても素敵。ヒロシ役の加瀬亮は物静かで穏やかな雰囲気がとてもいい。こういう特攻隊員が沢山いたに違いないし、彼の残した手紙の内容も自然。映画に描かれる特攻隊員は日本でもアメリカでもステレオタイプがあったけれど、新しい描き方をしてくれた若い世代の脚本(ジェンソン・リュウ)には力みや気負いを感じない。

ストーリーやテーマにとらわれると単なるメロドラマで終わってしまう。でも一つ一つのその瞬間を切り取ると「若いってこういうことだったのかな」と、なんとも切ない気持ちにさせられる儚い映画。

2012年1月9日月曜日

フライトナイト/恐怖の夜   Fright Night

85年の「フライトナイト」のリメイク。

学校では少しずつ生徒達の無断欠席が増えていくものの、そんなことにはお構いなし、チャーリー(アントン・イェルチン)はキュートなガールフレンド、エイミー(イモージェン・プーツ)とお気楽な高校生活を送っていた。ある日チャーリーの家の隣にセクシーな夜間肉体労働者、ジェリー(コリン・ファレル)が引っ越して来る。チャーリーの母は(トニ・コレット)は何となく気になる様子。


そんな時友達のエドが、消えた生徒達はジェリーに血を吸われたのだとチャーリーに告げに来る。しかし、ジェリーという名前からしても吸血鬼なんてことはありえない、とハナから相手にしない。そうこうしているうちに、エドもあえなくジェリーの餌食に。エドの無断欠席を心配したチャーリーは彼の部屋でPCの動画を見て、ジェリーがヴァンパイアであるかも、と疑いを持ちはじめる。遂にジェリーの家に侵入、”ごはん用”にとらわれていた人間を救い出すが、怒ったジェリーが反撃開始。激しい猛攻に、チャーリーはラスベガスのヴァンパイアキラー・ショーで有名なピーター・ヴィンセント(デヴィット・テナント)に助けを求めるが、けんもほろろに断られてしまう。しかし、頼りにならなそうなピーターもついにはチャーリーに手を貸すことに。あの手この手で応戦するが、400年生き抜いてきたヴァンパイアはなかなかしぶとい。

大体が吸血鬼ってよく考えるとあれこれオカシイ。にんにくが嫌いだとか、美女が好きだとか、夜行性だとか、「どうぞ」と言わなければ他人の家に入ってこないとか。「トワイライト」も面白いセリフや場面が満載なのだけど、映画館では笑えない。「フライトナイト」は恐怖や緊張はもちろん味わえるが、笑わせようとしてくれているのだから、笑わなくてはもったいない。
3Dで見る必要は取り立てて無いような気もするけど、ディズニーだしね。

オリジナルで吸血鬼を演じたクリス・サランドンが、血を吸われる役でちらりと登場。コリン・ファレルはなんだかスッキリした印象。断酒したのかしら。エイミー役のイモージェン・ブーツはカワイイ!

2012年1月8日日曜日

CHEMEXコーヒーメーカー 実践

年末、ついに月兎印のドリップポットを購入。これで道具は揃ったと、いよいよコーヒーを入れる事にした。

さて、ドリップポットからの第1投。コーヒー豆の表面に穴をあけないように、「の」の字を書くようにポットを回しながら。あらら穴がボッコリ、しかも泡が立たないわ〜。ここで本来ならばふんわりと泡が立つハズなのだけど。ま、しょうがないとお湯を継ぎ足していく。相変わらず泡はちっとも立たないし真ん中がカルデラのようにどんどん沈んでいく。しかもいつまでたっても注いだお湯がドリップされない。なんだかすごーく時間がかかるわ。そのうちコーヒーが冷めてしまった。しょうがないから溜まった分だけ飲んだらエスプレッソのように濃かった。日を改めて懲りずにもう一回入れてみたけど、やっぱりおんなじ。いろいろ考えて、豆に原因があるのではないかとオットが言う。家にあったコーヒーメーカーで使っている豆で入れたのだけど、そういわれてみたら荒めに挽くように言われていたっけ。そっか〜、ミルもいるのかぁ〜。

ワークショップをしてくれたカフェに行ったら、挽いてくれるけどお店の業務用ミルはかなり細かく挽くのでお勧めしないとの事。確かにワークショップの時はハンディタイプのミルを使ってたっけ。次に紀ノ国屋のコーヒーコーナーのお姉さんに相談してみた。そしたら12段階に分けて挽ける機械があるので、粗めに挽いてみましょうとのこと。豆はエチオピアはイルガチェフ地域のモカがおすすめという事で、それを挽いてもらった。このコーヒーは4年ぶりに入荷されたとのこと。コーヒー豆には詳しくないので、ええ〜!と驚いたり喜んだりできないけど、きっと美味しいのだろう。

家に帰って早速入れてみる。泡が立つし、コーヒーもスムーズにドリップされている。のの字、のの字でうさぎ印も今度は軽やか。ちゃんとあったかいうちにコーヒーが入った。コーヒーは少しもえぐくなく、まろやかであっさりした酸味。お姉さん、美味しかったです。3度目にしてやっとこさ飲めるコーヒーが入れられた。結構たのしいわ。

2012年1月4日水曜日

ブリューゲルの動く絵  The mill and the cross

ウィーン美術館所蔵、「十字架を担うキリスト」。ブリューゲルが彼の生きた16世紀フランドル地方の風景の中に「キリストの受難」を描いた作品である。

キリストが十字架を背負って処刑場に進む、その闇の隣では何事もないように子供たちがはしゃぎ、大人は踊り、世界は柔らかな光に包まれている。権力者が既得権を守りたいがための蛮行は、キリストの受難から1500年以上経たフランドルの地でも懲りることなく繰り返されている。そんな絵画にジュリアン・シュナーベル監督が時間、空間、音を加えて映像に収め、人間は現代もやはり変わっていないのだと気づかされる。

その光と闇の境界線に位置するものはなんなのだろう。そして、光には何が必要なのだろう。寛容、許容、慈悲、畏敬・・・。重たい時の流れのごとく回る風車の音が、グワーン、グワーンと画面全体に響く。一枚の絵の中には、ブリューゲルの壮大な時間と人々への思いが詰めこまれている。

主演はあのブレードランナーのルドガー・ハウアー、シワが増えたけれど面影あり。そして70年代一世を風靡した懐かしのマイケル・ヨークと、今も美しいシャーロット・ランプリング。この3人がまさに絵画そのものの風格をもって、ブリューゲルの世界に違和感なく溶け込んでいる。

シュナーベル監督では「バスキア」でもデヴィット・ボウイ、デニス・ホッパー、ゲイリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン等、ファン垂涎の役者をチェスのコマのようにスッスと配置したけれど、今回もその配役に唸ってしまった。

2012年1月1日日曜日

謹賀新年

 友人から聞いた話、東洋哲学でこれからの30年を見ると・・・。
9つの意味のあるカテゴライズx各20年=180年、この180年を1サイクルとして歴史が繰り返されている、という考え方があるそうだ。2012年はその1サイクルのどのあたりかというと、8つ目カテゴライズの9年目にあたり、後31年で180年の全サイクルが終わって、新しい時代が来ることを意味しているとのこと。さて2012年の1サイクル前(180年前)は、西暦1832年水野忠邦老中時代、そこから明治元年まで36年。・・・新しい時代がやって来た。

180年、これを全て見どどけるには人間の寿命はちと短い。3世代はつないでいく必要があるかな。逆に言えば180年かけて物事を考えなければいけない、ということなのかも知れない。これからの30年、来るべき新しい時代が明るいものになるように、何が私に出来るわけではないけれど、せめても、今を大事にしつつ、今がよければいいという考えを捨て、明るくやさしい気持で毎日を送りたい。

皆様の一年が、穏やかで、笑顔に満ちた一年になりますように。